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2011年5月28日発売 別冊ライトニング105「ナイキクロニクル -NIKE CHRONICLE-」
「ナイキクロニクル -NIKE CHRONICLE-」表紙

本は以下から購入できます。
 出版社サイト⇒サイドリバー
 アマゾン⇒amazon.co.jp
 セブンネット⇒7net


電話帳並みの厚み!!
AllSmilesの夢が形になりました!!
「ナイキクロニクル -NIKE CHRONICLE-」が出来るまで


~コンテンツ~
1. 三人の出会い、「All Smiles」の開設
2. 「本を作ろう」が合い言葉に、そしてエイ出版との再会
3. 一から作り出す「夢の図鑑」
4. エース満行さんの大活躍が奇跡の滑り込みセーフ!
5. 陽介くんが続く奇跡の滑り込みセーフとアーカイブ開門
6. エイ出版にて43時間編集地獄の赤ペンチェック
7. 夢が形に「ナイキクロニクル -NIKE CHRONICLE-」とうとう発売!
8. 終わりの言葉



1. 三人の出会い、「All Smiles」の開設

19歳の時に隣に住む兄ちゃんがくれたヴィンテージデニムに魅了され、どっぷりヴィンテージの世界に足を踏み入れ数年後にはナイキヴィンテージにまで手を出すようになった私。
70年代らしい見事なカラーリングに惚れこみ、ランニングシューズを中心にファッションとして買っていくが、やがて数が増えてきてその10年後にはコレクターと呼ばれる程の数を所有するようになる。
その頃スニーカーの売買がきっかけで10歳年下の古郡陽介君と出会いヴィンテージナイキで語り合うように。それが2003年くらいの出来事。
その後、彼との出会いで勢いづき2005年7月に当HP「AllSmiles」を開設。BBSを設けて少しずつ全国のヴィンテージナイキマニアが書き込みをしてくれるようになる。
そして開設間もなく、そのBBSで10歳年上の満行慎一郎さん(SMITSさん)が訪問してくれるようになり、熱い思いに意気投合。元々陽介君と満行さんは互いに存在を知っていた事もあり、いつしか3人で定期的に情報交換を理由に呑みに行ったりするようになった。その時の合い言葉が「いつか3人でヴィンテージナイキの本を作りたいねー」。
それからの数年間はヴィンテージナイキを通じて情報交換をし、語り合う事は我々にとって欠かせない憩いの場となる。そのテンション持続の所以の一つにはこのHPのBBSの盛り上がりもあった。ただ無精な私はHPの管理人という立場なのに、このBBSへのレスや返信を怠る事が多くそんな掲示板は盛り上がる訳もないはずだった。
しかし、この板の初期メンバーの小森君(やまぞう君)が見事に新たに集う方々にレスをマメにしてくれて、人がどんどん増えていったのだ。
その頃辺りから私に「Free&Easy」や「Lightning」からヴィンテージナイキコレクターとして取材がくるようになり、当URLが掲載される事も増え、さらにこのHPも盛り上がりを見せていく事になる。
事実2006年から毎年このHPのBBSの呼びかけで集まるパーティーはやるごとに人が増え、今では30人近くのオールドnikeファンが集うようにもなった。

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2. 「本を作ろう」が合い言葉に、そしてエイ出版との再会

この本を出版する2年位前だろうか、いよいよ満行さんと陽介君と「そろそろ具体的に進めてみようよ」という言葉が出だしたのは。
それは我々三人のうちの誰かが珍しいシューズ、本を作る為に必要なシューズを手に入れるごとに話題になった。
コレクションは誰かが「マス埋めゲーム」と言ったものをどこかで読んだ事がある。そしてその描いたマスが大体埋まりだすと、一回り大きなマス目を物欲が増やしコレクションは続く。
しかしこの本を作る事を目標においた我々は、途中から妥協のない広大なマス埋めゲームの前に立っていたのだ。
こんな広大なものをどうやって整理して載せるのかとか、一体何ページ必要なのか見当もつかないままどうやったら出版にまでこぎ着ける事が出来るかアンテナを伸ばしていった。
しかもまだまだ我々の脳裏にある「足りないシューズ」の悩みも引きずりながら。
当時ナイキジャパンのホワイトレーベルの責任者の方とご挨拶させて頂いたのも丁度この頃だった。
2010年、我々にとって大きく状況が変化した年になった。出版社を探している事を相談していたベルベルジン(原宿ヴィンテージショップ)藤原裕店長からの連絡でどうやらエイ出版が名乗りをあげてくれているという話をもらった。
エイ出版といえばLightningというアメカジファンには超有名な月刊誌があり、ムック本も沢山出している。
私にとっても2006年「別冊LightningVol.30」A級スニーカーブックのナイキページでは自ら取材を受けたり、殆どのスニーカーをリースしたりとお手伝いした繋がりもある。
実はこの年に入って他にも出版を名乗り出てくれてるところもあった為、いよいよ出版社を決める時がきた事を改めて感じる事となった。
早速エイ出版の小池さん、三浦さん、ライターの佐藤さんにBerBerの裕くん、満行さん、私の六人で呑みの席を設けて頂き、エイ出版のやる気たっぷりの言葉で話はトントン拍子に進む。
エイ出版に決めた理由はいくつかあった。一つは少し前に発売された「別冊LightningVol.91」ヴィンテージデニム大全の出来が良い話をしたら、そのスタッフで制作してくれるということ。
あとは、担当のランボルギーニ三浦さんがかなりのヴィンテージフリークで(元ヴィンテージショップスタッフ)我々のやりたい事を理解してくれて、300ページもの枠をすぐ用意してくれたことだった。満行さんも陽介くんもこの話をするとすぐに了承してくれて、この遠大な企画を我々は無償で全てエイ出版に委ねる事にしたのだ。

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3. 一から作り出す「夢の図鑑」

そこからの月日はあっという間だった。まずはどの辺りまで掲載していくかの方向性を悩み、満場一致で70's~80's前半くらいまでのシューズとレアなアパレルにしぼった。
毎年行われているAllSmilesの全体新年会に月刊誌のLightningに取材を入れて頂き、皆で載せてもらいながらムック本を制作する事を仲間に緊急報告発表。
そんなスニーカー仲間達のシューズもとにかく掲載して思い出を共有したかったので、誰から何を借りるかのリストアップをする。彼らのシューズなくしては出版出来ないくらい大事なシューズもあるので大変ありがたい存在でもあった。
その後、出版スタッフが準備出来たと同時に満行さんらと大まかな事を煮詰め、時にエイ出版、時に陽介くんの事務所を撮影スタジオにし撮り続ける日々が始まった
特に続々と全国から陽介くんのうちに送られて来る仲間達の大切なシューズたちを撮影が終わるまで管理してくれた陽介くんには本当に感謝だ。
その同時進行でも我々3人には自宅でやる大きな仕事がある。それは膨大な資料を洗い直し、一つ一つのシューズの情報を整理していく事。これがかなり大変な作業なのである。
今回は販売開始年だけでなく、ナイキシューズでは殆ど記されていない生産終了年や、当時の価格、品番や重さまで出来るだけ掲載しようと当時のアメリカのランナー雑誌の広告や当時のカタログ等を手分けして総チェックした。
満行さんがリーダーとなり、皆で夜な夜な更新をしては共有出来るように一斉メールで伝える。これを繰り返した後、また3人でファミレスで会い出力したものを皆で見ながら見直しをしてまとめる。
そんな日々を暫く続けると段々と〆切日が近づいて来る事に気付き不安材料が見え隠れしだす。途中発売日を5/13から5/28に延ばしてもらいはしたが我々にはかなりきついスケジュールだった。
しかしこのスケジュールぎりぎりまでにこれから我々は数々の奇跡を起こすのである。いや、正確に言うと我々ではない。満行さんと陽介くんがそれぞれ魅せてくれたのだ。

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4. エース満行さんの大活躍が奇跡の滑り込みセーフ!

まずは満行さん。とにかくこの企画が歩き出した時から絶対的なエースで常時私はおんぶに抱っこだった訳だが、最後の最後でも魅せてくれた。
実は出版が決まってから満行さんが入手したシューズの一つにスーパーコルテッツなるシューズがある。このシューズを箱付きで掲載するだけでもこの本の宝なんだが、このシューズとの出会いがとんでもない展開を産んでいったのだ。
クレイグ・ヴァージン。詳しくは本誌を読んでもらいたいが、とにかくnike設立当時からnikeシューズを履いて活躍していた当時の有名選手なのだが、このスーパーコルテッツは彼のものだったのだ。
そこからは当時のナイキの生き証人として是非インタビューに答えてもらいたいと満行さんが直接交渉。そしてなんとなんとその流れから当時のnikeの工場で試作品シューズを手作りしていたダン?ノートン氏までたどり着きお二人に取材OKをもらったというではないか!
しかもこの仲介役をしてくれたのが、アメリカのナイキヴィンテージシューズコレクターで有名なリンディー氏。彼がこうして力になってくれたのは勿論仲介役をしてくれただけではない。
彼のコレクション提供も快く承諾してくれて、本誌がさらにパワーアップした事も忘れてはならない。
とにかく何しろここまで「図鑑」的な動きしか出来なかったこの本に新たに先ほどお話しした両氏のインタビューが加えられると「文献コーナー」設立のチャンスが訪れたという訳だ。
ただ頭が痛い事があった。それは何か。皮肉にも既に時すでに遅しという位〆切りが翌々日に迫っていたからだ。
そして、もう一つ。我々が結局入手出来なかったシューズもあって、nike本社のアーカイヴの写真を使わせて頂く許可、、というよりアーカイヴから写真提供を依頼していた。
その返事もまるっきし2週間帰って来ていない、、。もうダメだと私も陽介くんも完全に腹をくくっていた。何しろ日にちが全然ない。こんな事ならもう少し早く始めていれば、、なんて何度も思った。
しかし、28日発売に対し完全〆切りは21日。そんな状況の中19日の日にダン・ノートン氏のインタビュー成功の業務連絡、翌日にクレイグ・ヴァージン取材完了の連絡も!おいおいどこまでぎりぎりなんだww

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5. 陽介くんが続く奇跡の滑り込みセーフとアーカイブ開門

そのぎりぎり奇跡NEWSはまだ終わらなかった。これはまた全く別の話だが陽介くんのエピソード。
今回スペシャルナイロンコルテッツ全7色をUSA製と日本製の両方を見開きで紹介する企画があったんだけど、どうしても青×黄を入手する事が出来なかった
一つないとコンプリートではなくなるのでかなり困っていた最中、なんと陽介くんがこの場に及んで入手したとの連絡をくれた。しかし海外から送ってもらうのでいつ届くかは分からない。
すると最終撮影滑り込み当日の19日丁度に手元に届き、速攻エイ出版に持ち込み撮影してぎりぎり本誌記載セーフという超ファインプレーもあったのだ。
そのお陰で史上初のスペシャルナイロンコルテッツ全7色をUSA製と日本製が全て見開きページで紹介されるというnikeマニアからしたらとんでもないページがさりげなく見事に掲載される事になった。
そんな中である。さらに神がかり的なNEWSが飛び込んで来た。19日の朝の満行さんからのメールだ。たった一行「アーカイヴきたー!」。
おいおい、あんなに返事がなかったナイキのアーカイヴまでがこのギリギリの状態でなんと掲載許可&資料提供をしてくれたのである。
しかも日本の出版物にアーカイヴがシューズの写真提供協力する事もきっと初めてではないだろうか。これにより、WAFFLEページで欠かす事の出来ないシューズ「ムーンシュー」が三種類もさりげなく掲載されることが出来た。
それだけでなく今回フランスのコレクターのニックから借りようと油断していて実現出来なかった「ウェインウェルズオートグラフ」の写真を提供してもらいレスリングページもなんとか格好がついた。

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6. エイ出版にて43時間編集地獄の赤ペンチェック

何しろこんな沢山の出来事が発売日28日に対して22日には印刷が終わってなければならないのに、20日~21日に立て続けに起きたのである。
勿論全て前向きな事件ではあるので内心は心が躍り鳥肌が立ってはいたが、全てを掲載させなきゃ意味がないので差し込む作業から現場は当然バタバタになる。
基本的には今回のヴィンテージナイキのアイテム達はあまりにマニアックなものが多すぎて出版社のライターも当然ついては来れない。
内容の文章は殆ど我々が資料として提出した我々の言葉自体が鍵となっているのでどんな使われ方をするのか当然チェックしなければ気が気ではないのだ。
だからなんと20日の夜中に初めて出力されたサンプルページ達を満行さんが受け取り、21日の土曜日の朝からエイ出版の近所に集合して三人で赤ペンで年代やシューズ名当時の価格等を入れて14時にはエイ出版に提出。
ここからは三人ともエイ出版の会議室で待機して、上がって来た原稿に最終赤ペンチェックを入れて本印刷に回していく流れになった。
当然上記記載のように昨日今日入手した記事もある訳だから、この印刷をするその日にエイ出版も別の部屋で文章を書いている。
その上がりたての文章を我々がチェックした瞬間本印刷に回という半年前から企画してたとは思えないバタバタ劇が最後の日に訪れたのだ。
しかも320ページもあるのでこの流れは永遠続く事になる。しかし自分は22日に都内でライブ出演があった為、翌日の22日の11時頃にエイ出版を後ろ髪引かれながら退出させてもらった。
満行さんと陽介くんはなんとそのまま最後までチェックしていたので21日9時~23日朝4時の43時間赤ペンを入れる為に待機していた訳である。
これを全部無償でやるのだから(勿論まさかの流れではあるが)我々の情熱も半端ではないことが分かるだろう。
それでも結局は本印刷にすぐ回さないと間に合わない原稿もあった為アパレルの殆どが目を通せないまま本印刷に回ってしまい、発刊するまで不安を抱くような形になり正直発売日までピリピリムードになっていた。

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7. 夢が形に「ナイキクロニクル -NIKE CHRONICLE-」とうとう発売!

そんな中予定通り28日に発刊。我々には前日に送られて来た。ズシリと重いちょっとした電話帳のような存在感のムック本。
ここまでがっつり関わったのにこの時に表紙のデザインを初めて見たという状態だからどこまでバタバタだったのか想像がつくだろう。
マニア的には探せばいくらでも「あーすれば良かった」「こーしときたかった」という言葉は出てしまうが、とにかく圧巻でありこんな本を作りたかったと描いていた夢が形になって出来たという感覚は間違えなかった。
こんな状態で発売までもっていったので早速誤字等は見受けられるが、当初の希望した内容が殆ど網羅され、この一冊にまとまった事を本当に満足している。
正直何冊売れるかなんていう商業ベースで考えれば、320ページの沢山のヴィンテージシューズの写真を載せた図鑑を定価1260円で作れた時点で実は決まっている。
最後の3日の奇跡の出来事は出版からしたら編集の妨げになる最大の敵だったかもしれない。
「凄い事も理解出来るし、本に載せれたら申し分ないがあまりに時間がタイトなんで正直タイムアウトにしてほしい。」きっとこれが本音ではないかと。
しかしこの僕らにとってはこの本の質を上げる上で全て大事な出来事だったし、掲載してくれなかったらどんなに落ち込んだかは分からないくらいなものだった。
とにかく今、この本が書店に並んでいる。ここまで長年コレクションをしてきて必ず作りたかった一冊。このタイミングで制作したのが世の中にとって正解だったかは分からない。
しかし、我々からしたら最善のタイミングだったんではないかと思う。当然コレクションしたものを公開する本なので、後に作れば作る程アイテムも増え豪華になる訳だがきっと今で良かったんだと思う。
このホームページを作った時に、こんな本を作りたいなーと思いそれが今回形になった誇りの一冊となった。

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8. 終わりの言葉

当HPの「NIKE OLD SWOOSH」の「OLD NIKE SCHOOL」はマニアック過ぎて当然出版までこぎ着けられるとは思えない内容である。しかし今回のこの本でとうとう実現する事が出来た。
All Smilesからしたら夢が形になった本になった。個人のHPやブログとは違い本は出版物なので想像から沢山の言葉は語れないが、是非写真で見てこのHPの言葉とリンクさせて楽しんで頂けたら幸いだ。
最後にエイ出版の関係者の皆さん特に三浦さん、佐藤さん、澤田さん、渡辺さん、どうしても撮っておきたい1足を撮影する為に我が家にカメラマンが来てくれる程、妥協の許さない我々にスタッフ一同賛同して動いてくれた姿は本当にありがたかったし嬉しかったです。ベルベルの裕君も架け橋役を本当にありがとう。
そしてAll Smiles BBSの仲間のみんな、この度は本当にご協力ありがとうございました。発売前日に発刊したばかりの本を囲んで一緒に喜んでくれた事は本当に嬉しかったし、この為にやってた気さえしました。

古郡陽介くん、私の人生第一号のナイキで通じた友人であり、出会った今日までずっと定期的に付き合わさせてもらってます。貴方がいなければこんな遠大な企画も夢見なかっただろうと思うし本当に感謝しています。
nikeの話を何百時間という時間を今まで使ってきたけど、まだまだ話足りないので兄貴の竹生君含めてこれからもお付き合いください。もう一度言います。貴方と出会わなかったら本を作る夢は夢のままでした。
満行慎一郎さん、この度は本当にお世話になりました。nikeに対する思いは勿論尊敬に値しますが、こうして同じチームでやらせて頂き正に監督でありキャプテンでありエースでした。
何度もSMITSさんのメールに鳥肌が立ち、どんどんこの本を素晴らしく変えていく姿は今回のプロジェクトのプロデューサーでした。貴方と一緒に名前を並べてクレジットされる事自体恐縮ですがとても光栄に思ってます。

最後に、この本が出来た事によりまた新たな人との繋がりや出会いを期待して、この本がこの道のゴールではなく通り道だと期待して歩んでいけたらと思ってます。
30代最後の自分への誕生日プレゼントとしては最高の贈り物でした。

2011年5月吉日
All Smiles 兼近 俊哉(TOWA)


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